ML'sGarally '03年7月

埼玉県熊谷市  炎天下、真っ直ぐに続く一本の砂利道。
 車を止め、ずぅっと追いかけてきた砂煙が収まると、代わって蝉時雨が周りを覆い尽くした。


撮影場所:
埼玉県熊谷市 旧東武熊谷線跡


畑の中を、真っ直ぐ続く砂利道。炎天下、光り輝く金属の帯のように、緑のカーペットを断ち割って続いていきます。

 歩道付きの二車線道路を造るには、ちと中途半端な幅のこの道。もともと道路ではなく線路敷だった場所です。
 第2次世界大戦中、画面奥にある市街地から、MLの進行方向にある利根川を超え対岸にある軍需工場(旧中島飛行機・現富士重工業)へ、工員や資材を運搬するために建設されながら、川を越えられないまま終戦。その後も利根川手前の妻沼まで細々と運行されていたものの、二十年ほど前に廃止され、現在は道が整備されています。

 梅雨明け前でしたが真夏を思わせる陽射しの下、太陽を待ちわびた蝉時雨の喧しさと、自分と愛車以外何もない砂利道の静寂さが同居する、不思議な空間でした。

 夏休み、海、キャンプ、虫取り・・・・といった、楽しい思い出、いいかえればポジティブな記憶が色濃い夏ですが、陽射しが強ければ影もまた濃くなるように、ネガティブな記憶も蘇ってきます。
 そう、こんな砂利道に身を置いていると、つい国語の教科書に出ていた「夏の葬列」を思い出してしまいます。
 疎開先で米艦載機の機銃掃射に慄き、親しい女の子を弾丸の雨の中へ突き飛ばしてしまった男が、戦後その場所で葬列に出くわすという、山川方夫の短編小説です。

 戦後世代が、既に過半数を占めるとはいえ、それでも戦争に向き合わなくてはいけない。夏はそんな季節です。


荒川大橋

熊谷市は終戦の前日の晩、八月十四日に大空襲に遭い、多くの人が焼け出されました。あと一日終戦が早ければ、亡くならずに済んだ人の無念は想像するに余りありますが、その記憶を留めている遺物は、あまり残されていません。この線路敷の他は大正末期に架けられた荒川大橋の鉄橋の一部が保存されているくらいでしょうか。

 B-29は、東京都下の現武蔵野市・東大和市等の軍需工場を空襲した後、この鉄橋の上を通過し群馬県太田市、栃木県宇都宮市を爆撃して、鹿島灘に抜ける、というのがお決まりのルートだったようです。よって、大戦末期は毎日のように爆撃機が通りすぎるのを見つめていたことでしょう。そして終戦の前日、怪鳥達は熊谷市民に襲いかかってきました。


 熊谷の空襲が、戦略上意味があったなどと思う人は、誰一人としていないでしょう。東京にはもはや爆弾を落とすところがなく、燃料を節約するために重たい荷物を捨てていっただけなのかもしれません。もっとも、戦略上の意味があろうとなかろうと、亡くなるのは銃後にあっては一般の市民であり、前線にあっても市民から徴用された一兵卒であることには変わりがありません。

 あれから半世紀。「戦争の世紀」が終わり「テロの世紀」が始まってしまいました。ますます市民が犠牲になる嫌な世の中が、暫く続きそうです。

 もともと軍事用に設計されたGとは違い、MLは平和な世の中で生活を楽しむためにマーケットに提案され、受容れられてきたクルマ。MLを楽しめる平和な世の中が永続するように願いつつ、炎天下で灼けるように熱くなった車内に乗り込みました。

「もう、道路になっちゃってますよ」
「そう、寂しいね〜。。。」

 熊谷線廃止まで活躍した小さなディーゼルカーと共に。

 今はもう、走ることができないディーゼルカーの代わりに走ってきたことを、機械同士会話しているのでしょうか。






photo&essay:nekobasu320
埼玉県妻沼町

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