三度目の、車検(上) |
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秋の雨が降り続いている。 |
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通過直前に赤信号になった交差点は、繁華街をつなぐスクランブル交差点になっていて、交差する道の信号が赤になっても次は歩行者信号が青になる。和立が睨んでいる信号が青に変わるのは、その後だ。こんな些細なことにさえ、和立は自らの不運と定義して、心の中で信号機に悪態をついた。 和立の最近二年間は、無為に、という表現は適当でないまでも極めて平穏に、別の言い方をすれば結婚や子どもの出生といった大きなイヴェントを迎えることなく過ぎていった。前例の無い不況を生き抜いた和立の勤務先での仕事は、景気回復に伴って忙しくなる一方だったが、プライベートを圧迫するほどではない。和立自身も、多忙を言い訳に独身を続けているつもりはないが、さりとて積極的に結婚相手を見付ける訳でもなかった。 |
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愛車を購入当初は、和立にとって初めて自動車という自分専用の隔絶された空間を持てたことが嬉しくて、当時交際のあった女性とよくドライブデートに出掛けた。今思い返すと赤面するような会話を、車内ではごく自然に交わしていたことだけは記憶している。 しかし、その時その当人は永遠に続くと思っている甘美な時間も、現実の生活からすれば一時の泡沫でしかなく、和立の愛車という狭い空間を出て続いていくことはなかった。 その後も思い出したように女性とは付き合うのだが、どちらが原因というでもなく自然消滅を繰返し、今では女性を隣に乗せて走ることはついぞ無くなってしまった。助手席は、もはや和立の仕事鞄の指定席でしかない。 交差点を埋め尽くしていた傘の波が駆け足で退き、和立の睨み据える信号が青に変わった。忌々しげに視線を水平に戻し、強くなってきた雨を追い払うために間欠ワイパーを連続に切り替える。しかし、停止線の直後にいる車は動く気配が無い。 背の高い和立の車の運転席からは、前に居座る国産クーペの屋根ごしに、交差点の向こう側が望める。雨合羽を着た警備員が、赤色灯の点いた誘導棒を小気味よくまわしている。大型ダンプがハザード・ランプを点灯させながら大きく右側にステアリングを切り、折り返しバックで左側のビル解体現場に吸いこまれる。その間道路は遮断状態におかれた。 「ったくっ!」とうとう、和立は声に出して目の前の「不運」に抗議した。前の車や警備員やダンプが、それぞれ悪意を持って和立を邪魔しているわけではない。だから誰にも抗議のしようがない「不運」なのだが、分かっていても声が出た。 結局、信号無視気味に前の車が交差点を渡り切っただけで、和立の車は停止線上に前輪を乗せてまたも赤信号の軍門に下った。 和立はステアリング中心のエアバッグカバーに嵌め込まれた、シルバーのスリーポインテッドスターを小突き、乱暴に背もたれに寄り掛かった。もちろん、シフトをニュートラルにいれて、パーキングブレーキを踏むことは忘れていなかったが。 腹立たしい赤信号から目を叛けて隣の車線に目をやると、鮮やかな原色の小型車が、和立のメルセデスよりも僅かに引き下がって停車している。セダンでもなくワゴンでもないそのスタイルを見ながら、一瞬何ていうカテゴリーだったか思い出せずに逡巡したが、すぐに「クロスオーバー」という単語が頭に浮かんだ。 不況の折、外資の援助を受けて破綻を回避し、現在はシェアを急拡大させている国産メーカーのヒット車だ。大きなグラスエリアのキャビン内では、ベビーシートの中で赤ん坊が寝ているようで、運転席にいる母親が時折視線を投げかけているのが雰囲気から想像できた。 自分の境遇とは全く相容れないが、いかにも家庭的なほの温かい車内の様子に思わず口元が緩んだ。 |
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母子の睦まじい光景をみて、微笑むだけの人間性が残っていることに和立は少しほっとした。しかし、だからといって自分の家にあのほの温かい光景を再現しようという気が、どうしても起きてこない。何故だろう。 面倒? いや、違う。束縛への抵抗感? それも違う。責任を負うことへの不安?未来への漠然とした恐怖? ……いろいろ推察はしてみても、しっくりくる言葉が見付からない。そうするうちに交差する道路の信号が赤に変わり、交差点が再び傘の波に呑みこまれた。 |
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いや、そんな絵空事よりも、目の前に迫った車検だ。和立は思いなおした。 |
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視線を戻すと、和立の数メートル前に荷物を抱えたまま傘をさした母親と、黄色いレインコートを着た子どもが取り残されていた。人込みの中でよそ見でもして躓いたのか、子どもが水溜りの中でしゃがみこみ、ベソをかいている。和立からみて右遠方から対角線状にこちら側へ横断する途中で立往生したらしい。また強くなった雨の中では先を急ぐ人ばかりで、母子は手助けの無いまま完全に交差点内で孤立してしまっている。 |
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「あーぁ」また声が出たが、前の時ほど刺々しい気持ちにはならなかった。またしても進路を塞がれた「不運」には違いないが、雨の中で途方にくれている母子と、居心地のよい車の中で些細なことに悪態をついている自分とでは「不運」度を比較しようがない。 |
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いくら和立の人がよくても、レザー張りのメルセデスに喜んで泥だらけの子どもを乗せるほど寛容ではない。しかし、ゲレンデで濡れたスキーウェアのまま乗りこめるように、冬を前に後席だけは防水カバーをかけていたのが役に立った。 |
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「雨の中、災難でしたね」自分の頭と顔をもう片方のタオルで拭きながら、和立は後席に話し掛けた。 「ほんとにもー、いやになっちゃう。この子いつもキョロキョロしているから。だめでしょ、ちゃんと前見て歩かなきゃ」 貴子の返事を聞きながら位置をずらしたバックミラーに、母子の姿が映る。 聡は背もたれに寄り掛かり頬を膨らませながら、何か言い返したそうにしているが、黙ったままだ。 「聡も大きくなったなー。来年小学生だっけ。覚えてる?僕のこと」 聡は黙って頷くと上半身を起こし、和立にこう返した。 「まーちゃんのクルマがとまっているなって、みつけたんだ。ずーっとクルマみながら歩いてたら、転んじゃったんだ」 「まーちゃん」と聞いて、和立の胸の奥が急に熱くなった。 間髪置かずに、貴子が「まーちゃんじゃないでしょ、ちゃんと和立さんって呼びなさい」と聡を諭す言葉を続けたが、和立の耳には入らなかった。 |
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一年近く通ったか。和立の愛車以外のメルセデスはほぼ網羅しているのに、なぜ自分のお目当ては無いのだろう、この店では扱わないのかと諦めかけた時、入荷があった。同じメーカー・同じスケールの製品だが、塗装や細部の仕様が若干異なるものが四種類。興味の無い人間には「何が違うのか」と首を傾げるレベルの差でしかないが、コレクターである和立には、その僅かの差が気になって結局全てレジへ持っていった。一万円を越える出費だが、一年間通ったことを思えば今手許にあるミニカーに巡り合えた喜びの方が強かった。 |
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先客の買い物を、女性店員がレジ打ちする。何とはなしに胸の名札に目をやると、「店長 山口」と記されている。このお店の洒落たセンスは、やっぱり女性の感覚だよなと納得しつつ、いい大人がミニカーを抱えてレジに並んでいる姿が、店の雰囲気から少々ずれているようで恥ずかしくなった。先客が買い物を引き取って立ち去ると、和立はレジ台にミニカーを並べた。 |
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「プレゼントですか?包装しましょうか」 問い掛けられて、我に返った。微笑みが和立を捕らえた。 「ええ、、、あっ、いや。結構です。そのままで」 山口貴子は微笑みを絶やすことなく、レジを打つ。 「ミニカー、お好きなんですか?」 「ええ、自分のクルマのミニカーをコレクションしているんです」 「ベンツにお乗りなんですか。いいですね」 お世辞にしても、嬉しいことを言ってくれるなと、素直に喜んだ。 「いや、支払いで四苦八苦していますよ」 貴子は、返事の代わりに微笑みを返してきた。 |
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「4点で一万1,760円になります」 急に事務的になったように感じて、少しがっかりしつつ金を渡す。 「ありがとうございました。またお越し下さい」 貴子の表情はまだ微笑みを絶やしていないが、今度は愛想笑いのように思えて、和立はさらに悲しくなった。 「あの。。。」 「はい?何か」 「また入荷があったら、是非買いたいんで、連絡を頂くことってできますか?」 貴子はすこし考えて、 「いつになるか分かりませんが、それでよければいいですよ。どちらにご連絡すれば?」 「じゃあ、こちらにお願いします。昼間は家にいないんで、会社の方が確実ですから」和立の会社の名刺を差し出した。 「あっ、お預かりしておきます。入荷したら連絡しますね。電話よりも、、、メールのほうがいいですか?」名刺に記されたメールアドレスを確認して貴子が尋ねた。 「どちらでも。よろしくお願いします」 これだけの量の雑貨を扱っているのだから、連絡なんかきっと忘れてしまうだろう。和立自身も連絡を期待していたわけではない。ただ、この瞬間が事務的な商取引で終わってしまうのが寂しくて連絡を乞うた、というのが実際のところである。 それでもミニカーを買った当日中こそ、一年振りの収穫と山口貴子との会話の記憶が心を弾ませていたが、翌日以降の仕事の多忙に抑えこまれ、暫く忘れ去っていた。 |
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「まだあのお店、続けてらっしゃるんですか」 バックミラーの中の貴子に尋ねた。 「え、えぇ。なかなか苦しくて大変ですけどね。なんとか」 バックミラーの中の貴子が、聡のレインコートを脱がせながら無表情に応える。 「今日は買出しだったんですか?」 「いえ、知り合いがやっていた雑貨店が廃業して、ディスプレイ用の道具を頂けるということだったんで、ここまで来たんです」 |
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貴子を後席に案内する際、一瞬預かった袋の中には確かに透明なアクリルでできた筒状や箱状の物が入っていたのを思い出した。雑貨を立体的にディスプレイするための小道具なのだろう。 「こんなものでも、買うと結構高いもんですから」次いで聡の長靴に手をやり貴子は続けた。 「そうでしょうね。そうか、火曜日はショッピングセンター自体がお休みでしたね」 「ええ、でもこんなことで一日振りまわされてしまって、休み無しです」貴子の言葉にため息が混じる。 「聡君の幼稚園は?お休みですか」 「休ませました。朝から出掛けてたもんですから、送り迎えの時間が取れなくて。それに、火曜日くらいしか一緒に居れないですしね」長靴を脱いで素足になった聡に目をやりながら、すこし表情が柔らかくなったのを、和立は見逃さなかった。 |
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和立にとっての大きな収穫があったことと、期待してないまでも一応連絡先を伝えていたことで、しばらく貴子の店から足が遠のいていた。気軽に行くには距離が遠すぎることもある。和立の週末は趣味が多い上に、旅行や友人の結婚式などのイヴェントが重なると残る時間は殆ど無い。独身だから洗濯や掃除も自分でこなさなくてはならないのだ。 日曜日に高校時代の同級生の結婚式に呼ばれ、同窓会を兼ねた二次会・三次会をこなして明けた月曜日。旧友達との宴席の酒が残る体を持て余しながら、和立は会社の机にしがみついていた。余り生産性のない社内事務をこなして何とか午前中をやりすごし、昼休みを目一杯休み切って、さあ午後の仕事にかかろうとパソコンの前に座る。すると昼休み時間中に馴染みのない発信元から電子メールが届いているのに気付いた。件名に「○○ショッピングセンター内××の山口です」とある。山口貴子からだった。 貴子の印象を記憶の中から急速解凍しながら、メールを開いた。 |
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内容は、和立の探しているミニカーの入荷はまだないのだが、お客からミニカーのメーカーについて問い合わせを受けていて困っている。ミニカー好きを見込んで、情報をくれないか、というものだった。メーカー名なのだろう。片仮名書きの単語が幾つか並べられていた。 |
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当初依頼していた入荷の連絡でこそなかったが、実のところ連絡の内容などどうでもよかった。期待していなかった連絡が来たという時点で、和立の気持ちは半分以上満たされていたといっていい。 |
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「山口さんもメルセデスだったんですね。いいなぁ、やっぱり。女性が運転するクーペってかっこいいですよね」 |
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店で逢ったときは、パンツルックで帆布地のエプロンをしていたが、今日は淡い色使いのスカートに白いブラウス姿だ。清楚な印象が新鮮だった。 |
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山口貴子は、この雨の中子どもを連れて歩いていた。ということは、既に車は売却してしまったのだろうか。それとも、車に乗って来られない何か特別な事情があるのだろうか。一瞬迷ったが、言葉を選びなおして貴子に尋ねた。 「しかしこの雨の中、聡君連れじゃ大変だったでしょう。電車で来たんですか」 「ええ、そこの駅まで。忙しくて車に乗れないでいたら、今朝見たらバッテリーが上がってしまってて。車で来られなかったんです」 車はまだ貴子の手許にあるようなので安心した。しかし同時に、疲れ果てやつれたようにも見える貴子の表情の理由が、あれほど格好よく乗りこなしていたクーペを縁遠くさせるほど多忙を極めていることに気付かされ、心が曇った。 「すいません、タオル汚してしまって」 一通り聡を拭い終わって、ミラーの中で貴子が謝罪した。 |
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「洗いざらしのものですから、気にしないでいいですよ。ところで、ご自宅は前のままですか。今からだと渋滞しますから結構時間かかりますけど、お送りしますよ」 和立は、貴子の自宅がある街の手前にある渋滞ポイントを思い浮かべながら提案した。 「ええ、ですけど、結構です。和立さんもお仕事帰りでしょう。お疲れなのにそんなことお願いできません」 「いや、今日は会社を休んでましてね。私用で車を転がしてここまで来たんです。だから構いませんよ」 「でも・・・・・」 暫く押問答を続けたが、和立はきっぱりとやり取りを切り上げ、バックミラーを所定の位置に戻し貴子の自宅へ向かって車を発進させた。この雨の中に荷物を抱えて服を濡らした母子を放り出すのが忍びなかったこともある。しかし、憂鬱と度重なるささやかな不運を踏み越えて巡り合った山口貴子という「幸運」を、ここで手放したくなかったのだ。 「この道も、、、、二年振り。いや、、、二年半振りか。。。。。」和立は呟いた。 |
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三度目の、車検(中)へ続く | |||