三度目の、車検(上)

 秋の雨が降り続いている。

 秋雨は、何故だか梅雨時ほど鬱陶しさを感じないのは不思議だが、それでも朝から降り続く雨には、うんざりする。

 和立護は、愛車の運転席から間欠ワイパーで拭取られる夕方の交差点の風景を、ぼんやり眺めていた。
 平日にしか処理できない、銀行や役所での手続きが溜まっていたので休暇を取って車で街に出てきていた。然程は面倒にも巻き込まれずに用事を片付け、ちょっとした買い物を済ませた後、帰路について間もなくのところだ。

 元来ラジオ派で、ちゃんとカーオーディオにチェンジャーが装備されているが余りCDをかけることの無い和立の愛車には、今日もAMラジオの放送が流されている。
 X年の総選挙で与党が敗北し伯仲状態となった国会が、中東支援法案審議のための臨時国会を召集しながら何事も決められないまま空転している、といった旨のニュースを、アナウンサーが何の感情も込めずに読み下す。
 今日は他に然したるニュースも無いらしく、正午のニュースでも同じ内容を耳にした。
 それでも、与野党で争点の少ない法案は幾つかあるらしい。3リッターを超える大排気量乗用車の増税法案は、自動車産業への影響を懸念する一部保守系議員の反対を押し切って、今国会で成立する見通し、とのニュースが続いた。

 和立が憂鬱なのは、雨の所為ばかりではなかった。愛車が間もなく車検を迎えるのだ。
 三十も後半になって独身を貫いている和立にとっても、七年前に当時600万円を越える大金を投じて買ったメルセデスの支払いはかなりきつかった。五年間でローンを完済し、名義が完全に自分のものとなった喜びを、和立は二年前のこととは思えないほど鮮明に覚えている。その後、車関係の大きな支払いが無かっただけに今度の車検費用負担が恨めしかった。また、もう二年経ったのかと思うと自分が無為に歳をとってしまったようで余計に悔しくなった。
 ニュースに拠れば大排気量車の増税が実施されるのは来年度からで、今度の車検には関係がない。しかし排気量3.2リッター・重量2トンに迫る和立の四輪駆動車は、いずれ負担が増えることには変わりなく和立の憂鬱を増幅する。

 
 通過直前に赤信号になった交差点は、繁華街をつなぐスクランブル交差点になっていて、交差する道の信号が赤になっても次は歩行者信号が青になる。和立が睨んでいる信号が青に変わるのは、その後だ。こんな些細なことにさえ、和立は自らの不運と定義して、心の中で信号機に悪態をついた。

 和立の最近二年間は、無為に、という表現は適当でないまでも極めて平穏に、別の言い方をすれば結婚や子どもの出生といった大きなイヴェントを迎えることなく過ぎていった。前例の無い不況を生き抜いた和立の勤務先での仕事は、景気回復に伴って忙しくなる一方だったが、プライベートを圧迫するほどではない。和立自身も、多忙を言い訳に独身を続けているつもりはないが、さりとて積極的に結婚相手を見付ける訳でもなかった。

 愛車を購入当初は、和立にとって初めて自動車という自分専用の隔絶された空間を持てたことが嬉しくて、当時交際のあった女性とよくドライブデートに出掛けた。今思い返すと赤面するような会話を、車内ではごく自然に交わしていたことだけは記憶している。

 しかし、その時その当人は永遠に続くと思っている甘美な時間も、現実の生活からすれば一時の泡沫でしかなく、和立の愛車という狭い空間を出て続いていくことはなかった。
 その後も思い出したように女性とは付き合うのだが、どちらが原因というでもなく自然消滅を繰返し、今では女性を隣に乗せて走ることはついぞ無くなってしまった。助手席は、もはや和立の仕事鞄の指定席でしかない。


 交差点を埋め尽くしていた傘の波が駆け足で退き、和立の睨み据える信号が青に変わった。忌々しげに視線を水平に戻し、強くなってきた雨を追い払うために間欠ワイパーを連続に切り替える。しかし、停止線の直後にいる車は動く気配が無い。
 背の高い和立の車の運転席からは、前に居座る国産クーペの屋根ごしに、交差点の向こう側が望める。雨合羽を着た警備員が、赤色灯の点いた誘導棒を小気味よくまわしている。大型ダンプがハザード・ランプを点灯させながら大きく右側にステアリングを切り、折り返しバックで左側のビル解体現場に吸いこまれる。その間道路は遮断状態におかれた。

 「ったくっ!」とうとう、和立は声に出して目の前の「不運」に抗議した。前の車や警備員やダンプが、それぞれ悪意を持って和立を邪魔しているわけではない。だから誰にも抗議のしようがない「不運」なのだが、分かっていても声が出た。
 結局、信号無視気味に前の車が交差点を渡り切っただけで、和立の車は停止線上に前輪を乗せてまたも赤信号の軍門に下った。
 和立はステアリング中心のエアバッグカバーに嵌め込まれた、シルバーのスリーポインテッドスターを小突き、乱暴に背もたれに寄り掛かった。もちろん、シフトをニュートラルにいれて、パーキングブレーキを踏むことは忘れていなかったが。


 腹立たしい赤信号から目を叛けて隣の車線に目をやると、鮮やかな原色の小型車が、和立のメルセデスよりも僅かに引き下がって停車している。セダンでもなくワゴンでもないそのスタイルを見ながら、一瞬何ていうカテゴリーだったか思い出せずに逡巡したが、すぐに「クロスオーバー」という単語が頭に浮かんだ。
 不況の折、外資の援助を受けて破綻を回避し、現在はシェアを急拡大させている国産メーカーのヒット車だ。大きなグラスエリアのキャビン内では、ベビーシートの中で赤ん坊が寝ているようで、運転席にいる母親が時折視線を投げかけているのが雰囲気から想像できた。
 自分の境遇とは全く相容れないが、いかにも家庭的なほの温かい車内の様子に思わず口元が緩んだ。
 母子の睦まじい光景をみて、微笑むだけの人間性が残っていることに和立は少しほっとした。しかし、だからといって自分の家にあのほの温かい光景を再現しようという気が、どうしても起きてこない。何故だろう。
 面倒? いや、違う。束縛への抵抗感? それも違う。責任を負うことへの不安?未来への漠然とした恐怖? ……いろいろ推察はしてみても、しっくりくる言葉が見付からない。そうするうちに交差する道路の信号が赤に変わり、交差点が再び傘の波に呑みこまれた。

いや、そんな絵空事よりも、目の前に迫った車検だ。和立は思いなおした。
 荒野を自由に駆け巡るイメージに惹かれて、当時流行っていたSUVというカテゴリーを切り開いたメルセデスを選んだ。人懐っこいスタイルとデザインが、和立の心の琴線に触れた。かなり無理をして支払い計画を立てたが、オーナーとしての満足感の方が苦労を上回った。
 当座の検査費用や諸税が払えないほど困窮しているわけではない。しかし七年経った今、大型のSUVは燃費改善が望めないため主力車種から外され、お隣のようなクロスオーバー車が取って代わりつつある。残されたSUVにしても、さっきのニュースのように税金が上がることはあっても下がることは望めないだろう。
 気に入っているとはいえ、車検を取ってこのまま乗り続けていくべきなのか、それともまだ中古車としての価値があるうちに売却して、独身生活に相応しいコンパクトな車を買い直すべきなのか、その点で和立の気持ちは大きく揺らいでいた。


 歩行者信号が瞬きを始め、モーゼの奇跡のように傘の波は左右に別れ、和立の向かうべき進路が開ける。この先の解体工事現場も、特に邪魔する車はなさそうだ。
 和立は少し明るい気持ちになって、パーキングブレーキをリリースしようと視線を下に移した瞬間、視界の隅で波が乱れた。

視線を戻すと、和立の数メートル前に荷物を抱えたまま傘をさした母親と、黄色いレインコートを着た子どもが取り残されていた。人込みの中でよそ見でもして躓いたのか、子どもが水溜りの中でしゃがみこみ、ベソをかいている。和立からみて右遠方から対角線状にこちら側へ横断する途中で立往生したらしい。また強くなった雨の中では先を急ぐ人ばかりで、母子は手助けの無いまま完全に交差点内で孤立してしまっている。

「あーぁ」また声が出たが、前の時ほど刺々しい気持ちにはならなかった。またしても進路を塞がれた「不運」には違いないが、雨の中で途方にくれている母子と、居心地のよい車の中で些細なことに悪態をついている自分とでは「不運」度を比較しようがない。
 
母子に気付いているため徐行してはいるが、既に隣に続く直進と右折のレーンは車が動き始めている。それに焦った母親は、とりあえず荷物を持ったまま子どもに立ち上がるよう促すが、子どもは動かない。母親は歩道に駆けより、持っている荷物を地面に置き傘をかぶせ、本人は雨に濡れるがままに駆け戻った。すぐに子どもを抱き起こして立ち上がり、和立を先頭とした車列に一礼する。

 雨に濡れたその母親の表情を、和立は記憶の奥から呼び覚ました。
「貴子、、さん!?」

 このまま直進するはずだったが、和立はとっさに左に曲がり交差点を数メートル過ぎた路肩に車を止めた。後席の床に転がっている傘を掴み、広げないまま母子のところに駆け寄った。
 「大丈夫ですか?」。自分の記憶違いを慮って、第一声は当たり障りのない言葉を選んだ。和立が駆け寄る頃には、さすがに信号待ちの人の中から傘をさしかける親切な人も出てきてはいたが、母親に降りかかる雨を完全に防いでいるとは言い難い。母親は、話し掛けてくる人に適当な相槌を打ちながら子どもの顔と手をハンカチで拭っている。
 和立は、自分は雨に濡れたまま、母親の表情をのぞき込むように傘を差し出した。
 「だいじょうぶでしたか。。。。山口貴子さん、ですよね?」
 「!」 母親の手が止まり、困惑したようにこちらを見上げた。
 「和立さん、、、、ですか?。こんなところで、、、、。びっくりしました」
 
 二人のやり取りを聞いて、周りで傘をさしかけてくれていた人が一人、離れていった。知り合いが来たなら出る幕無し、とでも思ったのだろう。
 「取り残されちゃっているのをずっと見てたんです。交差点の先頭で信号待ちしてましたから」
 「そうだったんですか、恥ずかしいわ。とんでもないところを、、、、。」
 「とりあえず、車に入りませんか?。これ以上濡れると風邪ひきますよ」
 「いや、、、もうびしょ濡れですし、聡は泥だらけですし、タクシーを呼びます、、、」
 「タクシーだって嫌がりますよ。僕なら大丈夫、汚れてもいいようになってますから」
 「いや、、、でも。。。。」

 スクランブル交差点のサイクルが一巡し、再び歩行者信号が青に変わった。
 この時間は、母子が向かおうとしていた方向に私鉄の駅があるため、その方面の人込みが最も激しい。交差点の対角から、またも分厚い傘の波が近寄ってくるのが見えた。
 「ここで聡君を拭いてても邪魔になるだけです、さあ、早く!」

 既に和立の頭にも完全に雨が染み込み、前髪から滴が落ちる状態になっていた。雨に濡れた顔を紅潮させた和立の雰囲気に気圧されたのか貴子は頷き、傘と荷物を拾い上げ聡の手を引き、和立の後に随った。

いくら和立の人がよくても、レザー張りのメルセデスに喜んで泥だらけの子どもを乗せるほど寛容ではない。しかし、ゲレンデで濡れたスキーウェアのまま乗りこめるように、冬を前に後席だけは防水カバーをかけていたのが役に立った。
 後席のドアを開け、傘をさしかけて貴子と聡を案内する。床の高い和立の四輪駆動車は、やはり子どもと女性には乗り辛い。貴子の抱える荷物を引き取って、乗りこむのをアシストした。ドアを閉めると車の後ろに回り、リヤハッチを開けて積んだままになっているテニスツアーバッグの中から大判のタオルを二本取り出した。運転席に戻ると、まずタオルの片方を貴子に差し出した。

 
 「雨の中、災難でしたね」自分の頭と顔をもう片方のタオルで拭きながら、和立は後席に話し掛けた。
 「ほんとにもー、いやになっちゃう。この子いつもキョロキョロしているから。だめでしょ、ちゃんと前見て歩かなきゃ」
 貴子の返事を聞きながら位置をずらしたバックミラーに、母子の姿が映る。
 聡は背もたれに寄り掛かり頬を膨らませながら、何か言い返したそうにしているが、黙ったままだ。
 「聡も大きくなったなー。来年小学生だっけ。覚えてる?僕のこと」
 聡は黙って頷くと上半身を起こし、和立にこう返した。
 「まーちゃんのクルマがとまっているなって、みつけたんだ。ずーっとクルマみながら歩いてたら、転んじゃったんだ」

 「まーちゃん」と聞いて、和立の胸の奥が急に熱くなった。
 間髪置かずに、貴子が「まーちゃんじゃないでしょ、ちゃんと和立さんって呼びなさい」と聡を諭す言葉を続けたが、和立の耳には入らなかった。




 貴子と最初に出会ったのは、何年前だったか。最初の車検の頃?いや、もう少し後だっだったかもしれない。
 山口貴子は、郊外の大規模ショッピングセンターにテナントとして入っている輸入雑貨店を営んでいた。基本的にはインテリア関係の小物をメインに取り扱っているのだが、飾り物になりそうな外国の玩具もそれなりに扱っている。輸入ミニカー蒐集を趣味の一つにしている和立は人づてにその店のことを聞き、自宅からも勤務先からもかなり遠い場所なのだが愛車を疾ばして店を訪れた。
 最初に店を訪れた時の様子を、和立は殆ど覚えていない。センスの良いディスプレイに洒落た小物が並ぶ店の奥の一角に、ブリキのロボットやブロンドヘアの人形といった輸入玩具のコーナーがあったこと、目当てにしていた和立の愛車のミニカーが売り切れていてがっかりしたことくらいしか記憶にない。店主の山口貴子も店にいたことは間違いないが、ミニカーを物色する和立の視界に入っていなかったのだろう。

 その後も折を見て貴子の店をチェックしていたが、暫く空振りが続き手ぶらで帰るばかりであった。その間も、山口貴子と何度かは対面しているはずだが、一切記憶に残っていない。

一年近く通ったか。和立の愛車以外のメルセデスはほぼ網羅しているのに、なぜ自分のお目当ては無いのだろう、この店では扱わないのかと諦めかけた時、入荷があった。同じメーカー・同じスケールの製品だが、塗装や細部の仕様が若干異なるものが四種類。興味の無い人間には「何が違うのか」と首を傾げるレベルの差でしかないが、コレクターである和立には、その僅かの差が気になって結局全てレジへ持っていった。一万円を越える出費だが、一年間通ったことを思えば今手許にあるミニカーに巡り合えた喜びの方が強かった。

先客の買い物を、女性店員がレジ打ちする。何とはなしに胸の名札に目をやると、「店長 山口」と記されている。このお店の洒落たセンスは、やっぱり女性の感覚だよなと納得しつつ、いい大人がミニカーを抱えてレジに並んでいる姿が、店の雰囲気から少々ずれているようで恥ずかしくなった。先客が買い物を引き取って立ち去ると、和立はレジ台にミニカーを並べた。
 歳は自分と同じくらいか。派手ではないが、いかにも輸入雑貨の目利きにありそうなセンスのよさを服装や化粧から感じる。先客とのやり取りもハキハキしていて、感じのいい女性だなと、和立なりの評価を心の中で下していた。


 「プレゼントですか?包装しましょうか」
 問い掛けられて、我に返った。微笑みが和立を捕らえた。
 「ええ、、、あっ、いや。結構です。そのままで」
 山口貴子は微笑みを絶やすことなく、レジを打つ。
 「ミニカー、お好きなんですか?」
 「ええ、自分のクルマのミニカーをコレクションしているんです」
 「ベンツにお乗りなんですか。いいですね」
 お世辞にしても、嬉しいことを言ってくれるなと、素直に喜んだ。
 「いや、支払いで四苦八苦していますよ」
 貴子は、返事の代わりに微笑みを返してきた。

 「4点で一万1,760円になります」
 急に事務的になったように感じて、少しがっかりしつつ金を渡す。
 「ありがとうございました。またお越し下さい」
 貴子の表情はまだ微笑みを絶やしていないが、今度は愛想笑いのように思えて、和立はさらに悲しくなった。

 「あの。。。」
 「はい?何か」
 「また入荷があったら、是非買いたいんで、連絡を頂くことってできますか?」
 貴子はすこし考えて、
 「いつになるか分かりませんが、それでよければいいですよ。どちらにご連絡すれば?」
 「じゃあ、こちらにお願いします。昼間は家にいないんで、会社の方が確実ですから」和立の会社の名刺を差し出した。
 「あっ、お預かりしておきます。入荷したら連絡しますね。電話よりも、、、メールのほうがいいですか?」名刺に記されたメールアドレスを確認して貴子が尋ねた。
 「どちらでも。よろしくお願いします」

 これだけの量の雑貨を扱っているのだから、連絡なんかきっと忘れてしまうだろう。和立自身も連絡を期待していたわけではない。ただ、この瞬間が事務的な商取引で終わってしまうのが寂しくて連絡を乞うた、というのが実際のところである。
 それでもミニカーを買った当日中こそ、一年振りの収穫と山口貴子との会話の記憶が心を弾ませていたが、翌日以降の仕事の多忙に抑えこまれ、暫く忘れ去っていた。




 「まだあのお店、続けてらっしゃるんですか」
 バックミラーの中の貴子に尋ねた。
 「え、えぇ。なかなか苦しくて大変ですけどね。なんとか」
 バックミラーの中の貴子が、聡のレインコートを脱がせながら無表情に応える。
 「今日は買出しだったんですか?」
 「いえ、知り合いがやっていた雑貨店が廃業して、ディスプレイ用の道具を頂けるということだったんで、ここまで来たんです」
 
 貴子を後席に案内する際、一瞬預かった袋の中には確かに透明なアクリルでできた筒状や箱状の物が入っていたのを思い出した。雑貨を立体的にディスプレイするための小道具なのだろう。
 「こんなものでも、買うと結構高いもんですから」次いで聡の長靴に手をやり貴子は続けた。
 「そうでしょうね。そうか、火曜日はショッピングセンター自体がお休みでしたね」
 「ええ、でもこんなことで一日振りまわされてしまって、休み無しです」貴子の言葉にため息が混じる。
 「聡君の幼稚園は?お休みですか」
 「休ませました。朝から出掛けてたもんですから、送り迎えの時間が取れなくて。それに、火曜日くらいしか一緒に居れないですしね」長靴を脱いで素足になった聡に目をやりながら、すこし表情が柔らかくなったのを、和立は見逃さなかった。




 和立にとっての大きな収穫があったことと、期待してないまでも一応連絡先を伝えていたことで、しばらく貴子の店から足が遠のいていた。気軽に行くには距離が遠すぎることもある。和立の週末は趣味が多い上に、旅行や友人の結婚式などのイヴェントが重なると残る時間は殆ど無い。独身だから洗濯や掃除も自分でこなさなくてはならないのだ。

 日曜日に高校時代の同級生の結婚式に呼ばれ、同窓会を兼ねた二次会・三次会をこなして明けた月曜日。旧友達との宴席の酒が残る体を持て余しながら、和立は会社の机にしがみついていた。余り生産性のない社内事務をこなして何とか午前中をやりすごし、昼休みを目一杯休み切って、さあ午後の仕事にかかろうとパソコンの前に座る。すると昼休み時間中に馴染みのない発信元から電子メールが届いているのに気付いた。件名に「○○ショッピングセンター内××の山口です」とある。山口貴子からだった。
 貴子の印象を記憶の中から急速解凍しながら、メールを開いた。

 内容は、和立の探しているミニカーの入荷はまだないのだが、お客からミニカーのメーカーについて問い合わせを受けていて困っている。ミニカー好きを見込んで、情報をくれないか、というものだった。メーカー名なのだろう。片仮名書きの単語が幾つか並べられていた。
 すぐに思い当たるものもあり、初めて見るものもあり。和立は仕事を精力的にこなしている振りをしながらインターネットで検索を重ね、全てのメーカー名を割りだした。正確なスペルと会社所在地、日本での代理店が判明したものについてはその情報もつけて返信した。

当初依頼していた入荷の連絡でこそなかったが、実のところ連絡の内容などどうでもよかった。期待していなかった連絡が来たという時点で、和立の気持ちは半分以上満たされていたといっていい。

 返信は、五時をまわった頃にあった。
 丁重な感謝の言葉と、海外にいるバイヤーに発注をかけるに際してメーカー名がよく分からず困っていたが、お陰で無事発注できたことが記されていた。
 加えて、何かお礼をしたいので希望がありますか?とあり、和立は思わず顔が緩んだ。
 
 既に帰る支度をしていたが、もう一度パソコンの前に座り直して返信する。
 役に立てて喜んでいること、感謝の気持ちだけで満足なこと、あまりに専門的なことを求める客ならミニカー専門店を紹介した方が早いことを記し、送信した。

 貴子からの返信は素早かった。
 明日火曜日が店休日で、和立の会社の近くに用事で出掛けるため、昼食でもご一緒しませんか、という申し出だった。
 当然断わる理由もなく、携帯電話の番号とメールアドレスを送信し、帰路についた。

 翌日、和立は朝から気も漫ろで、携帯電話を何度もチェックしていた。当初外注先との打ち合わせが11時から入っていたのだが、長引いて貴子との昼食の約束がフイになるのを懸念して、適当な理由をつけて午後に回してもらう。よって昼休みを前にして手持ち無沙汰になり、余計に携帯電話が気になるという悪循環から抜けられずにいた。
 正午きっかりに、携帯電話が鳴った。
 
 「和立さんですか?山口です。昨日はお世話になりました」
 「あー、こんにちは。どういたしまして。もうお近くですか?」
 「えぇ、表通りにある『中央病院前』っていうバス停の前で車を止めているんですが」
 会社の目の前だ。
 「そこにいらしてください。すぐ伺います」
 
 バス停の前には、メルセデスのクーペがハザード・ランプを点滅させて止まっていた。
 運転席の山口貴子と二言三言挨拶を交わして、助手席に乗り込む。日頃背の高い四輪駆動車に乗っている和立にすれば、足を投げ出すような乗車姿勢が面白かった。時間も少ないので至近のイタリアンレストランにナビゲートした。
 テーブルにつき、恐らくは手早く出てくるであろうシェフお奨めのランチをオーダーして、和立は目の前の山口貴子に切り出した。

「山口さんもメルセデスだったんですね。いいなぁ、やっぱり。女性が運転するクーペってかっこいいですよね」
 お世辞ではなく、心からそう思っていた。

 「そういう和立さんだって、お乗りなんでしょう?」
 「いやー、私のはアメリカで生産されている奴なんで、やっぱり本場のモノとは違うみたいですよ」
 「私、あまり車のこと詳しくないんで、よく分からないです。どこがいいんだか」
 
 半分事実、半分謙遜だろうが、嫌味は感じなかった。微笑みを湛えたまま、快活にしゃべっているからだろうと、和立は分析した。

店で逢ったときは、パンツルックで帆布地のエプロンをしていたが、今日は淡い色使いのスカートに白いブラウス姿だ。清楚な印象が新鮮だった。
 和立からは、現在の仕事のこと、今夢中になっている趣味のこと、貴子の店を知った経緯、店の印象などを話した。
 貴子からは、店を持つようになった経緯、6年前に結婚してこの春から幼稚園に通う息子がいること、息子が寂しがって困っていること、景気が悪くて儲からないことなどを聞かされた。
 

 山口貴子の実家は貿易商で、輸入雑貨店はあくまでサイドビジネスだったが、貴子の父親の死去に伴って貿易会社を解散、雑貨店のみが存続しているのだそうだ。もともとは自分の土地に店舗を構えていたが、周辺の再開発で土地を売却し、代わりに新しく開業したショッピングセンターのテナントの権利を譲り受けて、今の店になったと、貴子は説明した。

 「またお店にもいらしてくださいね」
 会計の際に押問答をしたが、約束だからときっぱり言われてしまい、結局伝票は貴子に回ってしまった。貴子は、相変わらず快活に挨拶をすると、クーペに乗りこんだ。
 結婚して子どももいると聞かされて失望感を感じない訳ではなかったが、それでもいつもの午餐からすれば楽しい一時が過ごせたことに、和立は率直に感謝した。
 クーペを見送り、和立は少々遅刻気味に会社へ戻った。




 メルセデスのクーペのことを思い出して尋ねようとしたが、「そういえば、、、」と言いかけて、和立は言葉を飲み込んだ。 

 山口貴子は、この雨の中子どもを連れて歩いていた。ということは、既に車は売却してしまったのだろうか。それとも、車に乗って来られない何か特別な事情があるのだろうか。一瞬迷ったが、言葉を選びなおして貴子に尋ねた。

 「しかしこの雨の中、聡君連れじゃ大変だったでしょう。電車で来たんですか」
 「ええ、そこの駅まで。忙しくて車に乗れないでいたら、今朝見たらバッテリーが上がってしまってて。車で来られなかったんです」
 車はまだ貴子の手許にあるようなので安心した。しかし同時に、疲れ果てやつれたようにも見える貴子の表情の理由が、あれほど格好よく乗りこなしていたクーペを縁遠くさせるほど多忙を極めていることに気付かされ、心が曇った。

 「すいません、タオル汚してしまって」
一通り聡を拭い終わって、ミラーの中で貴子が謝罪した。
 「洗いざらしのものですから、気にしないでいいですよ。ところで、ご自宅は前のままですか。今からだと渋滞しますから結構時間かかりますけど、お送りしますよ」
 和立は、貴子の自宅がある街の手前にある渋滞ポイントを思い浮かべながら提案した。
 「ええ、ですけど、結構です。和立さんもお仕事帰りでしょう。お疲れなのにそんなことお願いできません」
 「いや、今日は会社を休んでましてね。私用で車を転がしてここまで来たんです。だから構いませんよ」
 「でも・・・・・」

 暫く押問答を続けたが、和立はきっぱりとやり取りを切り上げ、バックミラーを所定の位置に戻し貴子の自宅へ向かって車を発進させた。この雨の中に荷物を抱えて服を濡らした母子を放り出すのが忍びなかったこともある。しかし、憂鬱と度重なるささやかな不運を踏み越えて巡り合った山口貴子という「幸運」を、ここで手放したくなかったのだ。
「この道も、、、、二年振り。いや、、、二年半振りか。。。。。」和立は呟いた。
三度目の、車検(中)へ続く