三度目の、車検(中)


 山口貴子にランチをご馳走してもらってから最初の週末。和立は久々に貴子の店のあるショッピングセンターに向かった。友達との先約があるにはあったのだが、急用ができたことにしてキャンセルしてしまった。

 雨で他に行く所がなければ午前中からでも混むのだろうが、今日は天気がいい所為か開店直後のショッピングセンターは閑散としていた。
 
 貴子の店も開けてはいたが、店員の姿は見えない。和立はレジのところに立って、ドアが開いたままの控室内に向かって「おはようございます」と声をかけた。
 「あっ、おはようございます」奥から貴子の声がした。
 「すいません、朝早くに」既に開店しているのだから客が謝るのも変だなとは思ったが、つい言葉に出てしまった。
 「いいえ、いらっしゃい」屈託の無い笑顔で貴子が現れた。帆布地のエプロンは前のままだが、今日はジーパンを履いている。
 「この間はご馳走様でした」
 「いいえ、こちらこそお呼び立てして申し訳ありませんでした」
 他愛も無い挨拶を交わした後、貴子はレジ台脇に丸イスを出して和立に勧めた。

 

「この時間はお一人なんですか?」
 「ええ、他にバイトさんが三人いるんですけど、お昼前からお願いしているんです。土日は納品が無いですし、今日みたいな日はお客さんの出足も鈍いから」
 「それにしても、お一人では大変でしょう」感心して尋ねた。
 「もう慣れました。それに一人じゃないんですよ。実は」貴子が笑って応じる。
 「えっ、どなたかいらっしゃるんですか?」和立は少々大袈裟に、周囲を振り返ってみせた。
 貴子はそれには応えずに、控室の奥に向かって「さとる、ちょっと来て」と声をかけた。

 
 奥から男の子が飛び出してきた。頬の張り方や目が大きいところが貴子に似ている。
 勢いよく飛び出してきた割には、恥ずかしそうに貴子の背後に隠れてしまった。貴子の肩越しにこちらを見ている。
 「あー、息子さんですか。今、幼稚園だって言ってましたっけ」
 「そうですよー、ねー。ほら、和立さんに名前を教えてあげてください」貴子が促す。
 「やまぐちさとるです」そう言い切ると、再び貴子の背中からこちらを窺っている。
 「さとるくん、っていうの。どんな字を書くのかな」子どもに語りかけながら、実際には貴子に尋ねた。
 「耳偏に『公』と『心』で聡だよね」子どもに確認しながら、貴子が答えた。
 漢字を知らない子どもがこのやり取りを理解できるはずも無く、聡は再び控室に引っ込んでしまった。
 「本当は部外者を店内に入れてはいけないんですけどね。特別に見逃してもらってます」
 貴子はそう言って小さく舌を出した。
 「家族ならいいでしょう。食品を扱っていたりしたら家族でも問題ですけど」
 「どうしてもダメなら実家の母に預けるんですけど、幼稚園がお休みの時くらいはね。一緒にいてあげないとかわいそうで」
 「私の母親と大違いですね。私は放っておかれましたから」
 「そんなこと無いでしょう」二人で大笑いした。



 「聡、今でもお母さんのお店に行ってるのか?」
 
市街地を抜け、和立の車は郊外の幹線道路を走っていた。この時期としては、雨が鬱陶しいものの然程寒くは無いが、それでも雨に濡れた貴子と聡を気遣って、軽く暖房を入れている。雨に濡れた人間が三人乗っている所為で、デフォガを効かせないとフロントもリヤもホワイトアウトしてしまう。

聡は窓の外を眺めていたが、和立に問い掛けられて貴子と目を見合わせた。
 「ううん、行ってないよ」聡は目を伏せて応えた。「おばあちゃんのところに行ってる」
 「バイトさんが定着しなくて。人数も減らしたもんですから、お店に来ても構ってあげられなくて。それで、、、」貴子が補足した。
 
以前は和立が見かけた通り、幼稚園が無い土日に店で構ってあげてられていたものが、世知辛くなって子どもに目を向けられなくなった、ということなのだろう。だから今は、貴子が休みの火曜日に、幼稚園を休ませても親子の時間を確保しているのだ。
 聡を不憫に思うと同時に、貴子の商売の状況が思わしくないことを間接的に知らされて、和立の心はますます曇っていく。




 相変わらず貴子の店に、和立の求めるミニカーの入荷は無い。入荷は無いのだが、連絡は頻繁に来るようになった。
 和立の方も、週末の内一日は貴子の店を訪れるのが習慣になりつつあった。

 連絡が頻繁になるのと、定期的に通うようになるのと、どっちが先だったか本人もよく覚えていない。ただ建築関係の大学学部を卒業している和立の知識が、インテリア小物を扱う貴子の手助けをすることがままあり、メールで的確な回答を返してくる博識振りに貴子は信頼を高めていった。
 和立は和立で、貴子から頼りにされて有頂天になっていた。何か具体的な見返りを期待していたわけではないが、それでも貴子と顔を合わせた折に、微笑みと共に感謝の言葉を聞くのが楽しみだった。
 会話を重ねていくうちに、和立と貴子は同じ年の生まれであることが分かった。といっても、貴子は早生まれのため学年としては一つ上になる。かつ、一浪して大学に入った和立に比べ、貴子はストレートにミッション系の大学に入り卒業しているから、社会人としては二年先輩になる。
 二年先輩だとしても、それなりの規模の店舗を切り盛りする貴子のバイタリティーに、和立はいつも新鮮な驚きを感じていた。和立の身近には、商売をしている者が見当たらない。公務員か民間かの差はあれ給与所得者しか接したことが無い和立には、バイトの働き振りを査定したり、仕入れの資金調達に悩んだり、日毎の売上に一喜一憂する貴子の姿は別世界の人間のように見えて、素直な感心と憧れを寄せずにはいられなかった。


 火曜日の午餐を共有することも、半ば定例化しつつあった。仕入れや支払いの都合で、月一〜二回は貴子が会社近くまで来る機会がある。普段はコンビニエンスストアの弁当でただ単に空腹を満たすだけの和立も、貴子の来る火曜日だけは人間的で充実したランチを食することができた。だから逆に貴子が来る予定の無い火曜日は、自分の机の上で食べる弁当が余計に不味かった。

 これもいつの頃からか明確には覚えていないが、気がつけば「和立さん」は「まーちゃん」になっていた。そう呼ばれることに何の違和感もないまま「まーちゃん」を定着させたのは、快活で人懐っこい貴子に備わった才能なのか、それとも和立が望んでいたからなのか、今となっては分からない。しかし和立の方はと言えば、社会人の先輩であることを意識してか、気安さよりも憧れる気持ちの方が強かったためか、相変わらず「貴子さん」のままであったが。
 

 和立にとって更に嬉しかったのは、聡が和立に懐いていることだ。聡も、今までとは異なる遊び相手の出現に最初は戸惑ってはいたが、学生時代に家庭教師のアルバイトで鍛えた子どもあしらいの上手さを駆使して接すると、面白いように笑ってくれた。家庭教師をしていた頃の和立にとって子どもは慈愛の対象ではなく、言葉は悪いが単なる「お客さん」であったし、本人も子ども好きという自覚は無かったが、しがみついてくる聡を見るにつけ、自分の新たな一面を見つけられたように感じて心が温まった。

 有頂天ではあったが、やはり和立は心に引っ掛かりを感じていた。目の前で微笑んでいる憧れの女性は結婚をしていて、実像が示されてはいないものの「夫」という存在がある。輸入雑貨店を経営している所為か、貴子からは所謂「所帯染みた」雰囲気を一切感じないが、それが貴子のセンスから来るものなのか、あるいは既に夫婦関係が破綻していて「夫」の気配が抹殺されているのか、その時の和立には確認のしようがなかった。
 ただ聡と会話をしていても、母親である貴子のことはよく口にするが、父親の話題はついぞ口を突くことがない。だから代わりに自分に懐いているのだろうかと、勝手な想像を膨らませていた。そう思うと聡が余計に可愛く思えるのと同時に、貴子への気持ちが単なる憧れから変質していくのを感じて、和立は悩ましかった。




「そうか。でも、おばあちゃんだって可愛がってくれるだろ。それにもう小学生になるんだしな。あまりお母さんに心配かけるなよ」
 一瞬目を移したバックミラーの隅で、聡が頷いた。貴子が微笑みながら聡の肩に手を伸ばす。
 「でも、よく覚えていてくれたね、僕の車。確かに余り見かける車じゃないけど」

そろそろモデルチェンジの話題が自動車雑誌を騒がしてはいるものの、和立の四輪駆動車は発売開始以来基本的なデザインを変えていない。北米では大ヒットしたといわれる和立の愛車も、日本のマーケットでは然程受容れられず「珍しい車」の部類にカテゴライズされるだろう。
 それが理由ではなかろうが、聡はまた小さく頷いた。
 「聡といろいろ約束したけど、あんまり車で連れていってあげられなかったな、ごめんな」
 「いぇ、そんな。気になさらないで下さい。和立さんが謝ることじゃないですから」
 貴子が遮った。これまで血の気が薄かった貴子の顔が、すこし赤みを帯びた。




 山口貴子の「夫」の実像は、あっけなく和立の前に提示された。
 何度目かの火曜日の午餐の折だったように、和立は記憶している。
 インテリアがメインの店なのに、なぜ玩具のコーナーを置いているのか、何気なく問うた答えがこうだった。
 「旦那の趣味でね、自分で見繕って、私の店に並べさせてたんです」

和立は凍りついた。貴子と引き逢わせてくれた輸入玩具のコーナーは、貴子の夫のものだったとは。驚きと切なさと、様々な気持ちがない混ぜになって、和立の口を塞いだ。午後の陽を浴びる明るいテラスに置かれたテーブルの上を、冷たく重い沈黙が支配した。
 沈黙に耐えられなくなったのは貴子の方だった。自ら「夫」について話し始めた。


 貴子の夫は、父親が経営していた貿易会社の社員で、貴子の父親も相当目をかけていたらしい。溺愛する一人娘の夫にと思うのは、ある意味当然の成り行きだったのだろう。大学卒業後から貴子は雑貨店の経営を任されていたが、その男と結婚し聡が生まれた。夫が直接雑貨店の経営に口を挟むことはなかったが、好きだった外国玩具を仕入れルートに乗せ、貴子の店に専用のコーナーを設けさせたのが唯一の介入だった。
 
貴子の父親が急逝し、貿易会社の存続について話し合われた折は、貴子の夫が社長となって再建することも検討された。しかし父親のカリスマ的な信用に基づいて成り立っていた会社の再建は不可能と判断され、敢無く解散となった。
 それでも会社清算にあたっては貴子の夫が陣頭に立って債権の回収、負債の精算を推し進め、半年を待たずして全ての清算業務を仕上げたのだった。


 だが、清算業務終了の翌日、貴子の夫は忽然と姿を消した。

 東南アジアに出国したところまでは掴めたが、その先の足跡を辿ることは叶わなかった。清算後に残された数千万円の会社の金を持ち出していることから、買付けで度々訪れていたヨーロッパの某国に愛人がいるとか、イリーガルなものを個人的に密輸してトラブルに巻き込まれた等の口性ない噂も耳にしたが、すべては何の確証もなく真相は闇の中に隠れたままだ。

父親と会社を失い、夫に去られた貴子の絶望は如何ばかりのものであったか。和立は想像すると自分のことのように胸が痛んだ。

 「それでもね、聡がいましたし。お店も順調でしたから。生きてこれたようなものです」
 貴子はしみじみと、それでも明るく微笑んだ。
 父親が死去する前に、雑貨店は貿易会社とは法人上も会計上も切り離されていたのが幸いして、会社解散の混乱が直接波及しなかった。仕入れも父親の時代に開拓したルートが活きていて、貿易会社解散後も変わらず取引を継続してくれたのが、貴子に大きく味方した。
 「旦那がいなくなっても、何故かおもちゃを外せなくって」
 和立の表情が、またこわばる。しかし、俯いたまま貴子は続けた。
 「バイヤーさんがね、気を利かせているつもりか、旦那が選ぶのと同じようなセンスで品物を入れてくるものですから。付き合いが長いので断われなくて」
 「そうでした、か。。」精一杯、相槌を打つ。
 「それにね、結構売上を作ってくれるんですよ」貴子は向き直って笑った。
 和立も微笑み返したが、自分も売上に貢献していたことを思い出し、微笑みが長続きしなかった。

 「まーちゃん。。。ごめんなさいね、暗い話をしてしまって」
 別れ間際、貴子は詫びた。
 「いいえ、気にしないで下さい。貴子さんのこと、今まで知らなかったことが分かって、よかったですよ」
 貴子は応えなかったが、いつもの快活な笑顔を向けてきた。「また週末に・・・」
 和立は手を振って貴子のクーペを見送った。

 既に午後二時近いことに気付き、和立は会社に駆け戻った。




 雨の夕方故に交通量は多いが、それでも順調に和立の車は距離を稼いでいく。
 少々急な勾配を上り詰め、長い橋にさしかかった。貴子の住む街の名が道路標識に現れ始めるが、地名に続き記されている距離の数字は、まだまだ大きい。
 橋に刻まれた継ぎ目を太いタイヤが大袈裟に拾い、一定の間隔でピッチングを繰返しながら走っていく。

「私こそ、ご迷惑をかけっ放しで。すいませんでした」初めて貴子の方から話し掛けてきた。
 「そんな。。。迷惑だなんて、やめてくださいよ」和立は振り向かずに応えた。
 「和立さんもあれから、、、、その、、。」
 「えぇ、相変わらず独りですよ。気楽なもんです」言い辛そうに途切れる貴子の問いかけを遮るように、努めて明るく応えた。
 「そうでしたか」貴子は聡からも目を叛け、窓の外に目を遣った。
 「なんの進歩もありませんね。車も、仕事も、生活も、前のままです」和立はそう言って、自虐的に笑った。
 「そんなこと。。。変わらなくていいものだって、あると思うわ」語気が、僅かに強くなる。
 「そうですね、そう思います」和立は応じ、更に続けた。
 「車が変わっていたら、聡君にも気付いて貰えなかったでしょうしね」
 貴子は相変わらず窓の外を向いたままだが、表情は以前の雰囲気を取り戻しつつあるように思えた。



 和立は、貴子の店の「客」としての一線を既に踏み越えていた。
 

 貴子に請われるまま、和立は得意分野である建築や建材関連のアドバイスをし積極的に商品のチョイスに関わった。デザインや流行については、とんとセンスのない和立だが、建材における化学物質の使用規制法やバリアフリー法の情報、国内メーカーが力を入れている製品の情報などを伝え、貴子は品揃えの参考にした。また和立が来店中、貴子に不意の急用が生じた折など、臨時に店番をすることもあった。昼からはバイトが来る手前、貴子とバイトに気を遣って聡とショッピングセンター内を歩き回ったり、近くの公園まで行って遊んだりした。
 和立が頻繁に訪れるようになる以前、聡は店の控室内の小さなテレビを見たり、独りで絵本を読んだりして時間をやり過ごしていた。貴子の目の届く範囲の限定的な世界から抜け出して、和立に手を引かれて向かう先は、聡にとって未知なる楽しい冒険であったようだ。


 「いっつもね、まーちゃんとあそこへいった、ここが楽しかったって、報告してくるんですよ、聡ったら、、、、」
 聡の世話を押し付けてしまっていることを詫びつつ、貴子は聡の言葉を借りて感謝する。
 だが、受け取る側の心境は微妙にずれ始めていた。
 
確かに最初は貴子の手助けのつもりだった。しかし、夫が失踪状態であることを知ってしまった和立は、あたかも自分が父親の代わりを演じなければならないかのような義務感に囚われ始めていた。
 山口貴子へ「憧れ」は、完全に変質し切っていた。貴子の発する感謝の言葉に、水臭さしか感じられない状態に陥っていった。



 「僕こそ、深く立ち入りすぎてしまったなと。。。反省しているんですよ」
 長い橋を渡りきると、緩やかな右カーブを切りながら下っていく。昼間であればスピード違反の取締りが気に掛かる区間だ。念のためスピードメーターを一瞥して、和立が応えた。
 貴子は窓の外を眺めたまま、こちらに振り向かない。
 聡は、、、一日中貴子に付き合って歩き疲れたのか、眠ってしまったようだ。
 和立はそのまま続けた。
 「貴子さんの気持ちも考えずに、自分勝手なことを、、、」
 「和立さんのお気持ち、とっても有難かったんですよ」
 不意に貴子が遮った。
 顔を叛けたままであったが、声には力が入っていた。快活な貴子の声だ。

 発した言葉の意味よりも、声の調子が以前のイメージに戻ったことが和立には嬉しかった。次いで言葉の意味を噛み締めた。久方ぶりに耳にした貴子からの感謝に、返す言葉が出ない。
 

 気持ちを察してか、貴子が続けた。
 
「正直言ってね、あのまま頼ってしまいたいとも、、、、思いましたわ。。。でもね、まだあの時は私も、、、きっと意地があったんでしょうね」
 
言葉を選んで、慎重にゆっくりとした口調だった。
 「いやぁ、貴子さんの選択は、間違ってなかったと。今は僕もそう思っています」
 少し自分に嘘をつき、そう応えた。



 週末だけでなく、火曜日毎に重ねる貴子との時間は、既に和立にとって「当たり前の日常」と化していた。初めこそランチを共にするだけで別れていたが、そのうち午後の半日休暇をとって以降の行動を共にすることが多くなった。貴子が来ない週は、一日休みを取って和立の方から貴子を訪ねた。聡を幼稚園まで迎えに行き、三人で夕食をとることも幾度あったろうか。
 
そもそも休暇取得に寛大な勤務先ではあったが、火曜日毎に席を空ける和立を、上司や同僚は訝りはじめていた。しかし目の前の母子に視野を集中させている和立には、気に留めようもなかった。
 
 貴子の店においても同様だった。本人は大人しくしているつもりでも、その実バイトの目には奇異な存在として映っていたに違いない。
和立が想いを深くするのと平行して、和立の周囲にさざなみが広がっていく。さざなみが立っていることに気付かないまま、そしてそのさざなみが津波になる危険性を孕んでいることに気付かないまま、和立はさらにのめり込んで行った。

 ある火曜日、聡と三人でレストランでの食事を終え、和立は自分の車を運転して貴子の自宅へ向かっていた。

今夜の聡は、いつもに増して機嫌がよかった。和立が「今度キャンプにいこう」と約束してくれたからだ。貴子の目の届く範囲から、和立に手を引かれて歩む範囲から、更に広がる世界に思いを馳せ、聡は車の後席で寝入っている。
 「今夜こそ」和立はそう心に決していた。
 「自分の希望を、聞いてもらおう。自分の本心を、聞いてもらおう」レストランを出発してから、そう心の中で繰り返していた。




 「そうだ」
 ヘッドライトの先に雨粒が光る暗闇を見つめながら、和立は心の中で呟いた。
 
 止む気配すら見えない雨の中、軽自動車や小型車は左側の車線を慎重に走っているが、和立の四輪駆動車は安定感を失わないまま一定のスピードで突き進んでいく。

 自分にとっての「家庭的な温もり」とは、貴子と聡だったのだと、思い至った。
 あの時、あの二人を自分のライフサイクルの中に組込んでいたつもりだった。二人も、それを望んでいるのだと、思っていた。いや、思い込んでいただけだった。


 赤ん坊を慈しむ母親の姿を見ても、微笑ましさ以外なにも感じないのは、貴子と聡との思い出が無意識にその先の展開を封じていたのだろう。

 スクランブル交差点で浮かんだ疑問が一つ解決して、少し心の曇りが取れた気がした。
 

 「何て言ったらいいか、上手い言葉が見付らないけど。。。世の中にはね、いろんな愛情表現があるんだなって、思いましたよ」
 貴子の応えは、ない。が、和立は少し間を置いて続けた。
 「お互い耳触りのいいことだけ話して、表面的に手助けをして、それで全てを理解し合っているかのように、思っちゃったんですよ。僕は、、、、、」
 さっきもそうだったが、つい自虐的な言い方になるのは、和立の悪い癖だ。
 
 「和立さん、あのね」
 貴子の声は穏やかに、応えを返した。
 「お気持ちは、本当に有難かったの。それは確か。でもね、、、、和立さんの先々のことや、お店のことを考えるとね、、、。はい、とは、、、言えなかった、、、、、。」
 「ええ。。。。。ただ、僕の中では違うんです。。。。。あの時、最後にご主人の話を聞いて、あんな愛情の表し方は、、、僕にはとてもできない。そう思いました。。。。。。当たり前だけど、敵う相手じゃなかったんですよ」
 
 ワイパーが往復する音と、擦れ違う大型トラックの爆音だけが二人の間を埋め尽くした。




 貴子の自宅までの道中、眠る聡を気遣いつつ二人は他愛も無い会話を交わしているはずだった。例えば夕食の魚料理の味付けがイマイチだったこと、明日は納品があってバイトさんを一人朝からお願いしていること、聡の絵が幼稚園の先生に絶賛されたこと、約束したキャンプの当日晴れるのを期待していること、などなど。しかし、想い詰めた和立の耳に、それらは一切残っていない。貴子への想いの深さに沈み、自分の中だけに築かれた三人で迎える未来に閉じこもる和立には、相槌を打つのが精一杯だった。

 貴子の自宅の前に車を寄せ、停車する。いつもなら、お互い名残惜しく別れの挨拶を交わし、聡を起こして車を降り、眠い目をこする聡を抱きかかえた貴子に見送られて帰路についていただろう。

 「まーちゃん、今日もありがとね」と言いかけた貴子を遮り、和立は胸の中で念じ続けていたことを一方的に解き放った。

 何をどう言ったのか、本人ですら正確に再現できない。ただひたすら貴子へ愛情と、聡への慈しみと、そして思い描いた三人での生活を、切々と語り続けた。偽りの無い想いは通じると、思っていた。苦労はしても互いに助け合って楽しく生きていけると、考えていた。確かに、和立の頭の中では破綻の無い完璧な、貴子が拒みようのない告白だった。

 貴子と聡を想う余り、この二人を放り出して姿を消した「夫」への感情を、和立は隠すことなくぶちまけた。
 「僕は、あなたたちを見捨てたご主人を、許すことができない」
 その時は、切なる愛情表現の一つと、思っていた。

 それまで表情を変えずに聞いていた貴子だったが、悲しい顔をしてハンドバックの中から一枚の紙片を取り出した。たった一枚の紙が、和立の想いを呑みこみ一瞬にして全てを突き崩した。

 小切手。額面数十万ドル、外国銀行で振り出されたもののようだ。
 普通であれば額面の大きさに驚きそうなものだが、その時和立は、この紙切れが自分の前に示されたこと自体の意味が判らず、絶句した。

 「主人が、送ってきたものです」
 貴子の言葉は静かで、厳しかった。
 「持ち出した当時のレートですが、会社のお金を全部、送り返してきました。。。。。いきさつはどうあれ、私と聡を見捨ててはいなかったんです。。。。。。。だから、、、、、だから、主人を悪く言うのは、絶対に止めてください」

 打ちのめされた。
 金に手をつけずに送り返してきたということは、失踪が利己的な理由でなかったと言う他無い。何に追われて姿を消したのか、何を求めて消息を絶ったのかは窺い知れないまでも、貴子の夫は妻と子どもを想い、手元に残された全てを投げ打ってきたのだ。

 和立の想いにたいする返答は、なかった。
 
遠慮がちに指輪をした細い指や、上品に染め上げた髪や、微笑みを絶やさぬ唇に、名残惜しい別れ際、愛しく触れることも、なかった。
 貴子は無表情に聡を抱き上げると、誰も出迎える人のいない玄関の暗闇に溶けていった。

 翌日、和立は率直に謝罪のメールを送った。
 返事は、なかった。
 電話をかけても、伝言を残しても、反応はなかった。

 ただ一度、事務的なメールが来た。
 「ショッピングセンターの警備から、保安上の問題で部外者を立ち入らせないよう注意を受けました。店長としての立場もありますので申し訳ありませんが来店をご遠慮下さい」
 
 貴子の心を失ってしまったことを悟り、全ての想いを封印して、和立はその後を生きてきた。
 
和立の愛車が、オーナーの愛する女性を乗せて走ったのは、あの晩が最後だった。
三度目の、車検(下)へ続く