三度目の、車検(中) |
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「この時間はお一人なんですか?」 「ええ、他にバイトさんが三人いるんですけど、お昼前からお願いしているんです。土日は納品が無いですし、今日みたいな日はお客さんの出足も鈍いから」 「それにしても、お一人では大変でしょう」感心して尋ねた。 「もう慣れました。それに一人じゃないんですよ。実は」貴子が笑って応じる。 「えっ、どなたかいらっしゃるんですか?」和立は少々大袈裟に、周囲を振り返ってみせた。 貴子はそれには応えずに、控室の奥に向かって「さとる、ちょっと来て」と声をかけた。 |
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奥から男の子が飛び出してきた。頬の張り方や目が大きいところが貴子に似ている。 勢いよく飛び出してきた割には、恥ずかしそうに貴子の背後に隠れてしまった。貴子の肩越しにこちらを見ている。 「あー、息子さんですか。今、幼稚園だって言ってましたっけ」 「そうですよー、ねー。ほら、和立さんに名前を教えてあげてください」貴子が促す。 「やまぐちさとるです」そう言い切ると、再び貴子の背中からこちらを窺っている。 「さとるくん、っていうの。どんな字を書くのかな」子どもに語りかけながら、実際には貴子に尋ねた。 「耳偏に『公』と『心』で聡だよね」子どもに確認しながら、貴子が答えた。 漢字を知らない子どもがこのやり取りを理解できるはずも無く、聡は再び控室に引っ込んでしまった。 「本当は部外者を店内に入れてはいけないんですけどね。特別に見逃してもらってます」 貴子はそう言って小さく舌を出した。 「家族ならいいでしょう。食品を扱っていたりしたら家族でも問題ですけど」 「どうしてもダメなら実家の母に預けるんですけど、幼稚園がお休みの時くらいはね。一緒にいてあげないとかわいそうで」 「私の母親と大違いですね。私は放っておかれましたから」 「そんなこと無いでしょう」二人で大笑いした。 |
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「聡、今でもお母さんのお店に行ってるのか?」 市街地を抜け、和立の車は郊外の幹線道路を走っていた。この時期としては、雨が鬱陶しいものの然程寒くは無いが、それでも雨に濡れた貴子と聡を気遣って、軽く暖房を入れている。雨に濡れた人間が三人乗っている所為で、デフォガを効かせないとフロントもリヤもホワイトアウトしてしまう。 |
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聡は窓の外を眺めていたが、和立に問い掛けられて貴子と目を見合わせた。 |
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火曜日の午餐を共有することも、半ば定例化しつつあった。仕入れや支払いの都合で、月一〜二回は貴子が会社近くまで来る機会がある。普段はコンビニエンスストアの弁当でただ単に空腹を満たすだけの和立も、貴子の来る火曜日だけは人間的で充実したランチを食することができた。だから逆に貴子が来る予定の無い火曜日は、自分の机の上で食べる弁当が余計に不味かった。 |
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これもいつの頃からか明確には覚えていないが、気がつけば「和立さん」は「まーちゃん」になっていた。そう呼ばれることに何の違和感もないまま「まーちゃん」を定着させたのは、快活で人懐っこい貴子に備わった才能なのか、それとも和立が望んでいたからなのか、今となっては分からない。しかし和立の方はと言えば、社会人の先輩であることを意識してか、気安さよりも憧れる気持ちの方が強かったためか、相変わらず「貴子さん」のままであったが。 和立にとって更に嬉しかったのは、聡が和立に懐いていることだ。聡も、今までとは異なる遊び相手の出現に最初は戸惑ってはいたが、学生時代に家庭教師のアルバイトで鍛えた子どもあしらいの上手さを駆使して接すると、面白いように笑ってくれた。家庭教師をしていた頃の和立にとって子どもは慈愛の対象ではなく、言葉は悪いが単なる「お客さん」であったし、本人も子ども好きという自覚は無かったが、しがみついてくる聡を見るにつけ、自分の新たな一面を見つけられたように感じて心が温まった。 有頂天ではあったが、やはり和立は心に引っ掛かりを感じていた。目の前で微笑んでいる憧れの女性は結婚をしていて、実像が示されてはいないものの「夫」という存在がある。輸入雑貨店を経営している所為か、貴子からは所謂「所帯染みた」雰囲気を一切感じないが、それが貴子のセンスから来るものなのか、あるいは既に夫婦関係が破綻していて「夫」の気配が抹殺されているのか、その時の和立には確認のしようがなかった。 ただ聡と会話をしていても、母親である貴子のことはよく口にするが、父親の話題はついぞ口を突くことがない。だから代わりに自分に懐いているのだろうかと、勝手な想像を膨らませていた。そう思うと聡が余計に可愛く思えるのと同時に、貴子への気持ちが単なる憧れから変質していくのを感じて、和立は悩ましかった。 |
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そろそろモデルチェンジの話題が自動車雑誌を騒がしてはいるものの、和立の四輪駆動車は発売開始以来基本的なデザインを変えていない。北米では大ヒットしたといわれる和立の愛車も、日本のマーケットでは然程受容れられず「珍しい車」の部類にカテゴライズされるだろう。 |
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山口貴子の「夫」の実像は、あっけなく和立の前に提示された。 何度目かの火曜日の午餐の折だったように、和立は記憶している。 インテリアがメインの店なのに、なぜ玩具のコーナーを置いているのか、何気なく問うた答えがこうだった。 「旦那の趣味でね、自分で見繕って、私の店に並べさせてたんです」 和立は凍りついた。貴子と引き逢わせてくれた輸入玩具のコーナーは、貴子の夫のものだったとは。驚きと切なさと、様々な気持ちがない混ぜになって、和立の口を塞いだ。午後の陽を浴びる明るいテラスに置かれたテーブルの上を、冷たく重い沈黙が支配した。 |
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だが、清算業務終了の翌日、貴子の夫は忽然と姿を消した。 東南アジアに出国したところまでは掴めたが、その先の足跡を辿ることは叶わなかった。清算後に残された数千万円の会社の金を持ち出していることから、買付けで度々訪れていたヨーロッパの某国に愛人がいるとか、イリーガルなものを個人的に密輸してトラブルに巻き込まれた等の口性ない噂も耳にしたが、すべては何の確証もなく真相は闇の中に隠れたままだ。 |
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父親と会社を失い、夫に去られた貴子の絶望は如何ばかりのものであったか。和立は想像すると自分のことのように胸が痛んだ。 |
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雨の夕方故に交通量は多いが、それでも順調に和立の車は距離を稼いでいく。 少々急な勾配を上り詰め、長い橋にさしかかった。貴子の住む街の名が道路標識に現れ始めるが、地名に続き記されている距離の数字は、まだまだ大きい。 橋に刻まれた継ぎ目を太いタイヤが大袈裟に拾い、一定の間隔でピッチングを繰返しながら走っていく。 |
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「私こそ、ご迷惑をかけっ放しで。すいませんでした」初めて貴子の方から話し掛けてきた。 |
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「いっつもね、まーちゃんとあそこへいった、ここが楽しかったって、報告してくるんですよ、聡ったら、、、、」 聡の世話を押し付けてしまっていることを詫びつつ、貴子は聡の言葉を借りて感謝する。 だが、受け取る側の心境は微妙にずれ始めていた。 確かに最初は貴子の手助けのつもりだった。しかし、夫が失踪状態であることを知ってしまった和立は、あたかも自分が父親の代わりを演じなければならないかのような義務感に囚われ始めていた。 山口貴子へ「憧れ」は、完全に変質し切っていた。貴子の発する感謝の言葉に、水臭さしか感じられない状態に陥っていった。 |
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「僕こそ、深く立ち入りすぎてしまったなと。。。反省しているんですよ」 長い橋を渡りきると、緩やかな右カーブを切りながら下っていく。昼間であればスピード違反の取締りが気に掛かる区間だ。念のためスピードメーターを一瞥して、和立が応えた。 貴子は窓の外を眺めたまま、こちらに振り向かない。 聡は、、、一日中貴子に付き合って歩き疲れたのか、眠ってしまったようだ。 和立はそのまま続けた。 「貴子さんの気持ちも考えずに、自分勝手なことを、、、」 「和立さんのお気持ち、とっても有難かったんですよ」 不意に貴子が遮った。 顔を叛けたままであったが、声には力が入っていた。快活な貴子の声だ。 発した言葉の意味よりも、声の調子が以前のイメージに戻ったことが和立には嬉しかった。次いで言葉の意味を噛み締めた。久方ぶりに耳にした貴子からの感謝に、返す言葉が出ない。 気持ちを察してか、貴子が続けた。 「正直言ってね、あのまま頼ってしまいたいとも、、、、思いましたわ。。。でもね、まだあの時は私も、、、きっと意地があったんでしょうね」 言葉を選んで、慎重にゆっくりとした口調だった。 「いやぁ、貴子さんの選択は、間違ってなかったと。今は僕もそう思っています」 少し自分に嘘をつき、そう応えた。 |
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週末だけでなく、火曜日毎に重ねる貴子との時間は、既に和立にとって「当たり前の日常」と化していた。初めこそランチを共にするだけで別れていたが、そのうち午後の半日休暇をとって以降の行動を共にすることが多くなった。貴子が来ない週は、一日休みを取って和立の方から貴子を訪ねた。聡を幼稚園まで迎えに行き、三人で夕食をとることも幾度あったろうか。 そもそも休暇取得に寛大な勤務先ではあったが、火曜日毎に席を空ける和立を、上司や同僚は訝りはじめていた。しかし目の前の母子に視野を集中させている和立には、気に留めようもなかった。 |
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貴子の店においても同様だった。本人は大人しくしているつもりでも、その実バイトの目には奇異な存在として映っていたに違いない。和立が想いを深くするのと平行して、和立の周囲にさざなみが広がっていく。さざなみが立っていることに気付かないまま、そしてそのさざなみが津波になる危険性を孕んでいることに気付かないまま、和立はさらにのめり込んで行った。 ある火曜日、聡と三人でレストランでの食事を終え、和立は自分の車を運転して貴子の自宅へ向かっていた。
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今夜の聡は、いつもに増して機嫌がよかった。和立が「今度キャンプにいこう」と約束してくれたからだ。貴子の目の届く範囲から、和立に手を引かれて歩む範囲から、更に広がる世界に思いを馳せ、聡は車の後席で寝入っている。 |
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「そうだ」 ヘッドライトの先に雨粒が光る暗闇を見つめながら、和立は心の中で呟いた。 止む気配すら見えない雨の中、軽自動車や小型車は左側の車線を慎重に走っているが、和立の四輪駆動車は安定感を失わないまま一定のスピードで突き進んでいく。 自分にとっての「家庭的な温もり」とは、貴子と聡だったのだと、思い至った。 あの時、あの二人を自分のライフサイクルの中に組込んでいたつもりだった。二人も、それを望んでいるのだと、思っていた。いや、思い込んでいただけだった。 |
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貴子の自宅までの道中、眠る聡を気遣いつつ二人は他愛も無い会話を交わしているはずだった。例えば夕食の魚料理の味付けがイマイチだったこと、明日は納品があってバイトさんを一人朝からお願いしていること、聡の絵が幼稚園の先生に絶賛されたこと、約束したキャンプの当日晴れるのを期待していること、などなど。しかし、想い詰めた和立の耳に、それらは一切残っていない。貴子への想いの深さに沈み、自分の中だけに築かれた三人で迎える未来に閉じこもる和立には、相槌を打つのが精一杯だった。 |
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貴子の自宅の前に車を寄せ、停車する。いつもなら、お互い名残惜しく別れの挨拶を交わし、聡を起こして車を降り、眠い目をこする聡を抱きかかえた貴子に見送られて帰路についていただろう。 「まーちゃん、今日もありがとね」と言いかけた貴子を遮り、和立は胸の中で念じ続けていたことを一方的に解き放った。 何をどう言ったのか、本人ですら正確に再現できない。ただひたすら貴子へ愛情と、聡への慈しみと、そして思い描いた三人での生活を、切々と語り続けた。偽りの無い想いは通じると、思っていた。苦労はしても互いに助け合って楽しく生きていけると、考えていた。確かに、和立の頭の中では破綻の無い完璧な、貴子が拒みようのない告白だった。 貴子と聡を想う余り、この二人を放り出して姿を消した「夫」への感情を、和立は隠すことなくぶちまけた。 「僕は、あなたたちを見捨てたご主人を、許すことができない」 その時は、切なる愛情表現の一つと、思っていた。 それまで表情を変えずに聞いていた貴子だったが、悲しい顔をしてハンドバックの中から一枚の紙片を取り出した。たった一枚の紙が、和立の想いを呑みこみ一瞬にして全てを突き崩した。 小切手。額面数十万ドル、外国銀行で振り出されたもののようだ。 普通であれば額面の大きさに驚きそうなものだが、その時和立は、この紙切れが自分の前に示されたこと自体の意味が判らず、絶句した。 「主人が、送ってきたものです」 貴子の言葉は静かで、厳しかった。 「持ち出した当時のレートですが、会社のお金を全部、送り返してきました。。。。。いきさつはどうあれ、私と聡を見捨ててはいなかったんです。。。。。。。だから、、、、、だから、主人を悪く言うのは、絶対に止めてください」 打ちのめされた。 金に手をつけずに送り返してきたということは、失踪が利己的な理由でなかったと言う他無い。何に追われて姿を消したのか、何を求めて消息を絶ったのかは窺い知れないまでも、貴子の夫は妻と子どもを想い、手元に残された全てを投げ打ってきたのだ。 和立の想いにたいする返答は、なかった。 遠慮がちに指輪をした細い指や、上品に染め上げた髪や、微笑みを絶やさぬ唇に、名残惜しい別れ際、愛しく触れることも、なかった。 貴子は無表情に聡を抱き上げると、誰も出迎える人のいない玄関の暗闇に溶けていった。 翌日、和立は率直に謝罪のメールを送った。 返事は、なかった。 電話をかけても、伝言を残しても、反応はなかった。 ただ一度、事務的なメールが来た。 「ショッピングセンターの警備から、保安上の問題で部外者を立ち入らせないよう注意を受けました。店長としての立場もありますので申し訳ありませんが来店をご遠慮下さい」 貴子の心を失ってしまったことを悟り、全ての想いを封印して、和立はその後を生きてきた。 和立の愛車が、オーナーの愛する女性を乗せて走ったのは、あの晩が最後だった。 |
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三度目の、車検(下)へ続く |